
・釈迦の毒矢のたとえ
毒矢を撃たれ負傷する人の仲間が
「この矢はどこから飛んできたのか?どんな矢だ?羽はついていたか?誰が射ったのか?毒の成分は何か?」
このようにあれこれ考えるのも良いが、まず刺さってる矢を抜いたらどうだい?
という例え話です。
なんでこんな話をしたのかというと
釈迦は理屈っぽい弟子に
世界は永遠なのか、はたまた、いつか無くなるのか?
世界には果てがあるのか、はたまた、果てがないのか?
魂と身体は一体なのか、はたまた、別なのか?
人は死後も存在するのか、はたまた、しないのか?
としつこく答えを求められました。
釈迦は答えを説いたら説いたで悩み苦しむのも分かっていたし
死後の世界があるにしろないにしろ
「今私たちがどのように生きていくかを考える上で役には立たない」と思ったはず。
だからこのような例え話をしました。
そんなことよりも
生きていく中で不安や悩み苦しみをなくしていこう
「それにはやらなきゃいけないことたくさんあるよね」って話ですね。
わからないことをわからないままにしておく
早急に答えをもとめず、まず毒矢を抜こう、やるべきことをまずやろうということだと思ってます。
お墓も
死後の世界なんてあるのか?子供たちはお墓を見てくれないのでは?いずれ無縁墓になるのでは?孫は地元に帰ってこないのでは?
とわからないものを考えて何もしないよりも
まず亡くなった方に対して尊敬の念を持ってお墓を建て納骨して供養しましょう
やるべきことをしましょうって話になりませんか?
死んだ後のことはわからないけど、やるべきこと(供養や建墓)を自然に行う人は幸せも多いはず。
死んだ後のことを考えに考えて迷走し、墓を建てるどころか、先祖のお墓も壊して、散骨、合葬する人は幸せも少ないかもしれません。
なぜなら手を合わせる対象がない子供たちは成長段階で先祖を敬う人間性、道徳観が失われる可能性も高いからです。
お墓参りは教育
答えに答えないで子供たちにやるべきことを見せて教える最高の教育です。
お墓のことならなんでもご相談下さい。
佐々木寛太郎